マタイ6章34節はその直前の33節に全ての労苦すなわち求めるべきものが集約されていますね。はじめからそして最ももとめるべきものは神の国と神の義であるとありますね。そうすれば他のものはすべて添えて与えられる・・・他のものは大したものではなくて添え物なんですね。大切なものは神の国と神の義なのですから今も主が共にいて赦し続けられていることに喜んで自分を憎み害する人を理解して覚えてその人たちが確かな救いにあずかることを期待するべきでしょう。
テモテ前書5章17節に3通りの長老像を思い浮かべてしまいました。「よい指導をしている長老」とその長老の2倍の尊敬を受けるにふさわしい「特に宣教と教とのために労苦している者」と17節には書かれていませんがもしかしたらこの世の中には「よい指導をしていない長老」がいるのでしょうか。
東京教会では現在4つもの(はっきりと私は知りませんが直前の投稿ではそうみたいです)裁判沙汰が起きているようですが教会に「よい指導をしている長老」や「特に宣教と教とのために労苦している者」ばかりであったらそのような争いごとは起きていないのではないかと思うのですが。聖書の御言葉に付け加えたり書き足したりしてはいけないことなので東京教会には「よい指導をしていない長老」など決していないと信じたいと思います。
|
|